言葉が通じない場所で笑う
インドを旅行した時、電車を降りて立ち寄った村。
暑さと移動の疲れもあり、木陰で休んでいた時の話。
観光客は珍しいようで村人がこっちを見ている。
大人は遠巻きに眺めている。
子供はもう少し近くから様子を見ている。
小さな子たちは好奇心旺盛で、少しずつ近づいてくる。
目を離した隙に私の近くの物陰へ。
「だるまさんがころんだ」をしている感覚である。
目が合うと恥ずかしそうに隠れる。
が、目を離すとまた近くにいる。
無邪気に笑っており、その姿を見て大人も微笑んでいる。
私は被っていた帽子にサッと手をやった。
急な動きに反応して皆の動きが一瞬止まる。
そしてゆっくりと帽子をめくり上げる。
視線が私の帽子に集まる。
旅行中の私は現地の床屋で髪を剃り上げていた。
なので帽子を脱ぐとツルツルの頭が出てくる。
太陽が反射していたに違いない。
その頭を見て子供たちはケタケタと笑った。
一通り見せるとまた帽子を被り、素知らぬ顔で景色を眺める。
またジリジリと子供たちが近づいてくる。
サッと帽子に手をやる。
皆の動きが一瞬止まる。
先ほどよりもゆっくりと帽子をめくり上げる。
太陽が反射する頭が出てくる。
子供たちは飛び跳ねて喜んでいる。
これを何度となく繰り返した。
彼らは帽子から頭が出てくる度、心底おかしそうに笑う。
遠巻きに見ていた大人たちも声を出して笑っている。
笑う人に釣られて最初はいなかった村人が集まってくる。
そうして集まる人たちが皆楽しそうにしていた。
言葉はわからないので直接会話はしていない。
特別な意思疎通もなく、木陰で帽子を脱いだり被ったりしていただけである。
しかし、あの場では可笑しさを共有して笑った。
お互い誰かもわからず
何をしているのかもわからず
たぶんバカなことをしていた。
それでもずいぶんと満たされた気持ちになった。
言葉が通じないのは不便だが、言語にはできないコミュニケーションがあることも思い出した。
日本にいると意思の疎通をついつい言葉に頼ってしまう。
しかし同じ言葉を使っていても行き違いは起きる。
些細なことで腹を立てることも多い。
そんな時にインドでのやり取りを思い出す事がある。
言葉は間違いなく頼りになるが、意思疎通の方法が一つではないことを再確認した経験。
「インドで立ち寄った村」言葉が通じない場所で笑う