敬いの姿
お釈迦さまには大勢のお弟子がおられた。
その中の代表的な十名を十大弟子と呼ぶ。
十大弟子の中に摩訶迦葉(まかかしょう)と呼ばれる人がいた。
頭陀行という修行を極めたお方である。
釈尊亡き後、摩訶迦葉は長老として教団を統率。
仏教を正しく後世に繋ぐため力を尽くす。
後に摩訶迦葉は教団を離れ隠遁。
その際に身を置いたと囁かれている山がインドにはある。
そこを訪れた人の話。
険しい山道を登ったところにその場所はある。
しかし、険しいのは山道だけではない。
その山には山賊が出るという。
一人ではあまりにも危険なのでガイド兼ボディガードを連れて山に向かう。
麓にたどり着いた時、ガイドは登らないと駄々をこねた。
「ランチをたくさん食べたからお昼寝がしたい」「お前は一人で行け」
仕方なく一人で向かおうと腹を決めた時、一人の男が声をかけてきた。
「一人は危険すぎる」「俺がガイドしてやる」
より危なそうだと思いつつ、ガイドを頼むことに。
途中で一人、また一人と彼の友達が加わる。
ガイドは3人になったが、いずれも身元の知れない男たち。
危険は増すばかりである。
山を登り始めた時、最後に加わった男が二人に囁いた。
「道の途中にナタを隠してある」「いつでもこいつを襲えるぞ」
旅行者は現地語を理解できないと勝手に思っているのだろう。
好き勝手話している男の言葉を聞き流し、険しい山道を登る。
山道を登ること、数時間。
休憩を挟みながら言葉を交わす。
「お前どこに住んでいるんだ」
京都に住んでいる。
「TOKYOか知っているぞ」
語感が似ているので勘違いしたようだ。
「家族はいるのか」
親族が勢揃いした時の写真を見せる。
「大家族だな」と嬉しそうに男たちは話す。
「この子供はお前の子だな?顔がそっくりだ」
自分の子ではないが血は繋がっているので放っておく。
「こいつは日本の中心地TOKYOにいる」
「しかもインドの俺たちと同じ大家族だ」
「さらに子供もいる」
「無事に帰してやらないと家族も子供達も可哀想だ」
嬉しい勘違いの末、無事に帰れそうな空気が漂い始める。
数時間の山登りを経てお目当ての場所に辿り着いた。
摩訶迦葉が居られたと伝えられる岩山の窪み。
そこに向かう途中で彼らは靴を脱いだ。
聖域に入る際、土足で踏み込むことはしない。
山賊でも、ヒンドゥー教徒でも、仏教の聖地には敬意を払う。
「誰かが敬っているものを、自分も大切にする」
それをごく自然に、当たり前のようにおこなっている。
彼らは山賊だが、自分以外のものに線を引いて排除することはしない。
時には相手の視点に立つ心の豊かさと広い器を持ち合わせている。
何気ない行為なのだろうが、その姿から考えさせられるものがあった。
困っている人を見かけたら手を差し出す。
泣いていたら理由を尋ねる。
助けてもらったら感謝する。
誰かが敬っているものを大切にする。
人は一人で生きているわけではない。
自分以外の人と共に生きている。
相手を尊び、思いやる気持ちが信仰心とともに護られているのではないだろうか。
人の幸せを慶び、共に泣ける心の源泉を訪ねた気がする。
摩訶迦葉の遺跡に着き、彼らにヒンドゥー語で語りかけた。
言葉を理解して話せることを知った彼らは驚いたが何よりも嬉しそうだった。
TOKYOから来た日本人
大家族の日本人
二人の子を持つ日本人
異国の者がインドの言葉を話し、文化に興味をもつことを喜んでいる。
襲う算段を立てていたことは既に頭から離れているようだ。
親睦を深め、はじめの緊張感は打ち解けた。
そのおかげもあってか無事に帰ることができた。
「仏跡を目指した話」敬いの姿